1991Koutaroの日記

元ラガーマン。パーソナルトレーナーを目指して日々活動しております☀

【応援】

今週のお題「応援」ですが、
高校ラグビーの頃の
お話を出来しようと思います。


私は中学からラグビーを始めました。
当時、体も細く練習量も多かったので
みんなについていくので精一杯でした。

中学の戦績は滋賀県内では優勝することが出来ましたが
近畿大会に進むと一回戦敗退。
レベルの違いを思い知らされました。

高校に上がろうとするとき進路に悩んでいました。
ラグビーを続ける気ではいましたので、
全国大会に出場し続ける伝統のある高校か、
創部したての私立高校。


私は悩みました。
高校ラガーマンの目標、花園に行くには
伝統高で手堅くいくか。

創部2年目で名前も知られてない高校に進学し
みんなと一から花園を目指すか。

私は後者を選択しました。
なぜか可能性を感じていたのです。

ラグビー部創部2年目(当時2007年)
の高校に入学し、伝統高との試合。
100点差をつけられ大敗しました。

そこから鬼のような練習。試合、合宿。

私の高校の監督は、
選手としては有名な泣き虫先生の教え子で

伏見工業高校で花園優勝経験があり
今では高校日本代表の
バックスコーチを務めております。

監督にはよく
「最高の苦しみを知らないと最高の喜びは分からない。」
と言われてました。

言われた当時は何のことかさっぱり
理解できていませんでした。

高校2年の滋賀県予選の決勝戦(当時2008年)
創部3年目です。

勝戦の相手は、
私が進学しようとしていた
伝統のある高校です。

私はメンバーに入れずにスタンドで
応援をしていました。

誰もが、私たちの優勝なんて
期待もしていなかったでしょう。

スコアは、30-24
接戦の末、勝利し
花園に出場することが出来ました。

優勝する瞬間を
グラウンドではなくスタンドで見ていたので
来年は必ずグラウンドで優勝しよう。
と心に決めていました。


そして、先輩方が引退されて
3年生になりました。

しかし、私はレギュラーではありませんでした。
自分がレギュラーで生き残れるには
どうすればいいか。
高校生ながら考えました。

答えはポジションを変えるでした。
フランカー(背番号6、7)
というポジションだったのですが

ここは選手層があついポジションだったので
フッカー(背番号2)に移行しました。


高校3年からやったことのポジションに移るやつなんていないぞ。
下手すれば補欠にも選ばれないぞ。と
コーチ、監督には驚かれました。

それでもいいです。と伝えました。

伝えたあと、教官室を後にした私は
何か新しいことを始めるような清々しい気持ちになりました。

とはいえ何をすればいいのかわからなかったので、
先輩方の試合のDVDや

強いチームのフッカーのポジションを参考にして、
全体練習が終わった後も、
自主練習を行っていました。

その様子を見ていたコーチが、
ある夏合宿の練習試合のとき
私をレギュラーとして使ってみようと
提案してくれたのです。

ここで結果を残さないと後はない。
と思い必死になりました。

この試合で1トライすることができ
セットプレーである
スクラムラインアウトも調子が良かったです。
チームも勝つことが出来ました。

この試合を機に、
私はレギュラーに選ばれました。

そして、2009年の11月。
滋賀県予選の決勝。
相手は昨年と同じリベンジに燃えている伝統のある高校。

スコアは20-15
昨年(2008年)はスタンドで応援していた私は
グラウンドに立ち、プレーし
メンバーと一緒に優勝の喜びを分かち合っています。


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いつの日か監督に言われた言葉が
この日ようやく理解が出来ました。

スタンドから見える景色。
グラウンドから観る景色。
スタンドからする応援。
グラウンドから聞こえる応援。
この高校3年間で、色々なことを経験させてもらいました。

信は力なり。
自分のことを信じて
仲間を信じて
最後までやり通して
本当に良かったです。


応援の形は様々ですが、
年月を経て私も28歳になりましたが、
今でも母校を応援しています。
頑張れ光泉ラガーメン!


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